「今日はひとつだけ買って帰ろう」。そう思って入ったのに、店を出るころにはカートの中に予定になかった商品がいくつも入っている。多くの人は自分の意志が弱かったのだと思います。でも、そう単純な話ではありません。IKEAの入口をくぐった瞬間から、あなたはすでに計算された空間の中に入っているのです。
01マッチを売る少年
IKEAを作った人物の名前は、イングヴァル・カンプラード。彼はスウェーデンの小さな村で生まれました。幼いころから、彼は普通の子どもとは少し違っていました。最初に売った商品は、家具ではありません。マッチです。親戚から安く仕入れたマッチを、近所の人たちに一箱ずつ売っていく。その小さな商売が、彼の原点でした。
普通の子どもなら、少しお金が入ればお菓子やおもちゃを買うかもしれません。しかしイングヴァルは違いました。得たお金で、さらに商品を仕入れたのです。マッチの次は、クリスマスカード、鉛筆、財布、装飾品、日用品。売れると思ったものは、何でも売りました。
17歳の卒業祝いに父が贈ったのは、時計でも車でもなく、会社の登録費用だった。
こうしてIKEAは誕生しました。名前もシンプルです。IとKは創業者イングヴァル・カンプラードの頭文字。Eは育った農場の名前。Aは近くの村の名前。それらを組み合わせて、IKEAという名前が生まれました。最初のIKEAは家具専門店ではなく、いろいろな安い商品を扱う、小さな通信販売の会社でした。
02安くて、良い家具という発想
第二次世界大戦後、スウェーデンでは住宅が増え、多くの人が新しい家具を必要としていました。ところが当時の家具は高く、デザインも古い。若い家庭や普通の人たちにとって、手の届きやすい家具はほとんどありませんでした。イングヴァルは、そこに大きなチャンスを見つけます。「安くて、見た目もよく、誰でも買える家具を売ればいい」。この発想が、IKEAを大きく変えていきました。
しかし、家具の通信販売には大きな問題がありました。家具は大きく、重く、壊れやすい。しかもお客さんは実物を見ないまま注文しなければなりません。本当にきれいなのか、使いやすいのか、写真と同じものが届くのか。当然、多くの人が不安に思いました。
そこでイングヴァルは、展示スペースを作ります。お客さんは実際に家具を見て、触って、座って、確かめることができる。そして気に入ったら注文する。今では当たり前に見えるこの仕組みも、当時としては非常に新しいものでした。
03フラットパックという革命
IKEAの運命を大きく変える出来事は、ある社員の何気ない行動から始まりました。ある日、社員がテーブルを車に積もうとしました。しかし、テーブルが大きすぎて車に入らない。そこで彼は考えます。「脚を外せば入るのではないか?」。脚を外し、板の状態にして車に入れてみると、驚くほど簡単に収まりました。
この小さな発見が、IKEA最大の革命につながります。フラットパック――家具を完成品としてではなく、板や部品の状態で箱に詰めて運ぶという方法です。これによって輸送コストは大幅に下がり、倉庫にも多くの商品を置けるようになり、販売価格も下げることができました。ただし、お客さんが自分で組み立てなければならない、という問題がありました。
なぜお金を払ったのに、自分で組み立てなければならないのか。それでも、安さの前で人はその手間を受け入れた。
04「IKEA効果」という魔法
家に帰り、箱を開ける。床に部品を広げる。文字の少ない説明書を見ながら、ネジを締め、板を組み合わせる。うまくいかず、少しイライラする。それでも、最後に家具が完成した瞬間、人は不思議な感情を抱きます。「これは自分で作った家具だ」。たとえそれが普通の本棚でも、自分の手で組み立てたものには愛着が湧きます。
これが、いわゆる「IKEA効果」です。人は、自分が手をかけたものに対して、実際以上の価値を感じやすい。IKEAは、組み立て作業をお客さんに任せることでコストを下げました。しかしそれだけではありません。お客さんに「自分で作った」という満足感まで与えたのです。
IKEAは家具を売っているだけではない。「少し生活が良くなった」という感覚を売っている。
もちろん、IKEAの成長は簡単ではありませんでした。同じような家具をはるかに安く売る若い会社に、既存の家具店は反発します。展示会から締め出され、供給業者に圧力をかけられ、商品を仕入れられなくなる。しかしイングヴァルは別の道を選びました。自社で商品を設計し、より安く生産できる国や地域を探す。皮肉なことに、競争相手の圧力が、IKEAをさらに強い会社にしてしまったのです。
05店そのものが、巨大な仕掛け
IKEAのすごさは、商品や価格だけではありません。店そのものが、巨大な仕掛けになっています。出口がどこにあるのか分からない。今どのあたりを歩いているのか分からない。気づいたら、思ったより長い時間が経っている。これは偶然ではありません。
IKEAの店舗は、多くの場合、一本道のように設計されています。リビングを通り、寝室を通り、キッチンを通り、子ども部屋を通り、収納エリアを通り、最後に倉庫とレジへ向かう。まるで生活の物語を順番に見せられているような構造です。あなたは自由に歩いているつもりでも、実際にはIKEAが用意したルートを進んでいます。見るものが増えれば、欲しくなるものも増えます。
窓が少なく、時間の感覚が薄れていく。これは、カジノの空間設計にも似ている。
IKEAにとって理想なのは、あなたができるだけ多くの商品を見ることです。たくさん見れば、たくさん買う可能性が高くなる。だからあなたが次にIKEAへ行くとき、どれだけこの仕組みを知っていたとしても、おそらくまた何かを買ってしまうでしょう。知っていることと、抵抗できることは、まったく別の話なのです。
06安さの正体と、暗い過去
IKEAの家具はなぜあれほど安いのでしょうか。理由のひとつは素材です。多くのIKEA家具は、無垢材だけで作られているわけではなく、粒子板や繊維板、いわゆるエンジニアードウッドが多く使われています。木の破片や繊維を圧縮して板にし、その上に木目調のシートを貼る。見た目は木のようでも、中身は私たちが想像する「木の板」とは少し違います。材料費、輸送費、倉庫費を抑え、組み立て作業をお客さんに任せる。こうしてあの価格が実現しているのです。
しかし、IKEAの物語には明るい面だけではありません。創業者イングヴァル・カンプラードには、長年隠されていた過去がありました。彼は若いころ、極右思想やナチスに関係する組織と関わりを持っていたことが後に報じられます。イングヴァルは後に公の場で謝罪し、それを人生最大の過ちだったと認めています。ただし、戦後しばらくしてからも関連する人物とのつながりがあったのではないかという指摘もあり、単なる若気の至りとして片づけるには難しい部分が残りました。
さらにIKEAは、東欧での生産に関して、強制労働との関係を指摘されたこともあります。一部の製品が、政治犯や強制的に働かされていた人々によって作られていた可能性があったのです。会社は後に、これは歴史上の汚点だったと認めました。しかし、後から認めることと、その時代に止めることは、同じではありません。
07IKEAが本当に売っているもの
イングヴァル・カンプラードという人物は、非常に矛盾に満ちています。世界有数の富豪でありながら、生活は驚くほど質素でした。飛行機ではエコノミークラスに乗り、スーパーでは値段を比べ、古い車を長く乗り続ける。彼はよく、浪費は道徳的な問題だと語っていました。一方でIKEAの企業構造は非常に複雑で、外から見ても簡単には理解できないものを作り上げました。表向きは大衆のために安くて良い家具を届ける会社。しかし同時に、極めて高度に設計された巨大なビジネスシステムでもあります。
2018年、イングヴァル・カンプラードは91歳で亡くなりました。マッチを売る少年から始まり、世界最大級の家具企業を作り上げた男。フラットパックを広め、自己組み立て家具を当たり前にし、世界中の人々の暮らし方に影響を与えた人物。同時に、暗い過去と複雑な評価を背負い続けた人物でもありました。
IKEAが本当に売っているのは、家具だけではない。安さ、便利さ、達成感、そして「暮らしを少し良くできるかもしれない」という希望。
だから私たちは、次にIKEAへ行くときも、きっとこう思うのです。「今回は、本当にひとつだけ買って帰ろう」。でもたぶん、その言葉はまた裏切られます。
ℹ️ 本記事は人物伝コンテンツとして、創業者の歩みとブランドの歴史を紹介するものです。歴史的事項には諸説あります。
